イレコミ!ドラゴンズ

黄金期の軌跡を形に残しときたくて削除せず放置してます
[中日ドラゴンズ] [スポーツ]

一般的に別れの季節といえば3月だが、球界の別れは秋が多い。
それは選手や首脳陣だけではなく、スタッフなど関係者も例外ではない。
今日、長きに渡りドラゴンズに関わり続けてきた一人の男性が、最後の仕事を終えた。


久野誠氏。
CBCのアナとして1979年に実況を担当して以来、38年間も最前線で中日の歴史を伝え続けた名物アナである。
東海地方に住む中日ファンなら顔を知らずともその特徴的な声は必ず聴いたことがあるはず。
「サンデードラゴンズ」の初代司会者にして1988年には「燃えよ!ドラゴンズ」の歌い手にも抜擢されるなど、
主に80年代から90年代にかけてドラゴンズ実況のトップランナーとして活躍した。

とりわけ星野仙一氏との相性がよく、晩年まで星野監督時代を懐かしむ、あるいは称賛する発言を繰り返し、
それが遠回しに落合監督体制を否定しているようなニュアンスを生み、
ここ10年ほどは「久野誠=アンチ落合の筆頭」という認識が浸透してしまっているのも事実だ。
中には「久野誠は中日が負けると嬉しそう」なんて書き込みを見かけたりもするが、これは大きな誤解だと思う。


確かに久野氏は星野監督の熱血的な人間性に心酔しており、
落合監督の秘密主義を前提としたクールなチーム作りには首を傾げる思いもあったのだろう。
だがそれは価値観の違いというか。
星野監督時代の乱闘上等、熱くて攻撃的なエンタメ傾向の強い野球を支持する声は根強いし、
ナゴヤ球場の熱狂を知っている世代からみれば、いくら強くてもドーム野球が物足りないのは仕方ないと思う。
(それは星野だ落合だの問題ではなく、ナゴヤドームの箱としての問題が要因ではあるが)

あくまで久野氏は懐古的な意味合いで「あの頃みたいな雰囲気が好きだった」と言いたいに過ぎず、
それを反射的に「好きの反対は嫌い」と捉えてアンチだなんだと批判に走るのはやや安直だろう。
「私は落合中日を応援しません!」「落合が嫌いだ!」とか発言したソースがあるならともかく、
ある種のニュアンスを偏った角度から切り取って、単純な枠組みにはめるのは注意が必要だ。


そんなわけで私は落合監督時代以降も久野氏に特別嫌な気持ちは抱いておらず、
むしろ昔っから聴きなれている声という事もあり、どちらかと言えば好きだ。
2000年代中盤からはだいぶ実況の機会が減ってはいたものの、
久野氏が実況の日はなんとなく懐かしくてチャンネルをCBCに合わせていたりもした。


さて、選手であれば「この選手と言えばあの試合」というのをすぐに紹介もできるのだが、
実況アナの「この人と言えばこの実況」を選ぶのはなかなか難しい。
例えば東海ラジオの吉村功氏なら1988年リーグ優勝目前での「郭はもう泣いています」とか、
1989年8月12日の「こんな試合は今まで見たことない!」がパっと思い浮かぶが、
久野氏の象徴的な実況が思い浮かばなかったので、
個人的に今なお2006年10月10日と並ぶベストゲームに数えているある試合の実況をお聴きいただこう。

1999年8月17日の巨人戦。
首位を走るドラゴンズと4.5差で追う巨人との“真夏の天王山”初戦は、
強竜打線を完全に抑えていた上原に代わり9回裏に登板した槙原を攻めて同点とし、なおも無死満塁。
打席には関川という最高の場面だ。







この瞬間の事、よく覚えているなあ。
20時54分でテレビ中継が終わっちゃって、CS放送なんて便利なものはまだ無いから、
試合の続きはラジオで聴くしかなかった時代。
この日も一番いいとこでテレビが終わって、慌ててラジオをCBCに回して噛り付いたものだ。

関川がサヨナラを打った時の喜びようは昨日のように覚えていて、
ファンになって初めて体験する優勝というものを確信したのもこの夜だった。
今改めて聴き直しても当時の情景が蘇り、胸が熱くなる。

ファンなら誰もにそれぞれ思い入れの深い試合があると思うが、
久野氏はいつもそれを最前線で伝え続けてくれた。

残念ながら最後の試合は大敗に終わったが、放送で仰っていた、
「初鳴き(実況デビュー)の試合も大洋戦の負け試合だった」という言葉になんとなくじわ~っと来た。
形は異なれどデビュー戦で二塁打を打ち、引退試合も二塁打で締めた立浪みたいでいいじゃないか。


晩年は言葉がなかなか出てこない場面も目立ち、悔しい思いをされた事だろうと思う。
これからは一人のファンとして、ご自宅で後輩の実況を厳しくも温かく見守る日々を送って頂きたい。

ここでもまた、一つの時代が静かに幕を閉じた。お疲れ様でした。

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肌寒い秋風が吹くこの季節、プロ野球は最も熱い時期を迎える。
優勝こそカープとホークスが早い段階で決めたが、熾烈な3位争いはまさに佳境に突入、
CS、日本シリーズと手に汗握る戦いはここからが本番である。


だが、それもAクラスのチームだけに許された特権。
我が中日ドラゴンズはここ5年間、優勝はおろかCS争いすらも遠い夢、
夏休みが終わる頃には来季へ向けた若手主体の戦いに切り替えるシーズンが続いている。

5年連続Bクラス。球団史上最長となる屈辱の歴史は未だ出口が見えず、
閑古鳥が鳴くのが当たり前となった寂しいナゴヤドームの客席が映るたび、
何とも言えないアンニュイな気持ちになる。


それもそのはず。
ついひと昔前まで、このチームはセリーグで一番強いチームだったのだ。
CS導入年から6年連続ファイナルステージ進出は今なお12球団で唯一無二の記録だ。
休日の試合ともなれば勝利を確信する老若男女がスタンドを埋め、強いドラゴンズに歓喜する。
常勝軍団の風格すら漂うおらが町のチームはアイデンティティであり、揺るぎなき誇りだった。


そんな強いチームの真ん中に君臨したのが福留、荒木、立浪、井端、川上、岩瀬、谷繁といった面々なら、
森野将彦という選手は最初は端っこにいながら凄まじい努力で真ん中に割り込んできた唯一の選手だったと言えよう。
森野を象徴する大好きな写真がある。








春季キャンプでいわゆる地獄のノックを受け、倒れる森野をとらえたものだ。


落合元監督が振り返る。
「森野なんか死ぬんじゃないかと思ったよ。ヨダレたらして、ベロを口の外に出して。
俺にバケツで水ぶっかけられたのを知らないって言うんだから。
あとから聞いたら、毎日グラウンドに来る前に病院寄って、点滴を打って乗り切ったらしい」。


かくして2006年、苦節10年で遂にあの立浪和義からサードのポジションを奪ったのも束の間。
今度は中村紀洋の電撃加入で外野に回され、
以後森野はその時々のチーム事情で常に不安定な立場を求められる便利屋のような役回りをこなし続けた。
それは毎年のように付け変わる背番号に象徴されていたのかもしれない。

近年は骨折の影響で衰えを隠せず、ファームで若手と一緒に汗を流す時間がほとんどだった。
それでもたまに一軍で打席に立つと、何かやってくれるんじゃないかという期待感があった。
だけど以前ならスタンドまで伸びていた打球は途中で失速し、もう二度と復活しない事も薄々分かってはいた。


その森野が、21年間の野球人生に終止符を打つことを表明した。
全盛期にはいくらでも高額オファーはあったろうに、最後まで中日一筋を貫いてくれた事に感謝しかない。

“槍”と形容されるライナー性の打球が、大好きだった。

ドヤ顔でダイアモンドを一周する姿が、大好きだった。

死球を与えた相手投手をオラついた表情で威嚇するのが、大好きだった。

エラーで山本昌の完全試合を潰し、ノーノー達成時にも一人だけ引きつった顔をしているのが、大好きだった。

落合監督にいじられて照れ笑いを浮かべるのが、大好きだった。


アナウンサーのツイートで引退を知り、24日のナゴヤドーム最終戦でセレモニーが催されるのもそこで知った。
唐突すぎるよ。でも、このあたりがすごく森野らしくて良い。
事前準備もお膳立ても完璧だった立浪とは違う、この末っ子っぽさが森野なのだ。

ナゴヤドーム元年に入団し、酸いも甘いも全部経験した生き様はまさに“時代のヒーロー”。
黄金期の末っ子の引退は、一つの時代の終わりを感じざるを得ない。
来年からはきっと別の形でドラゴンズの新しい時代を作ってくれる事だろう。

21年間、お疲れ様。そしてありがとう。